過去の瞬間を捉えたものが写真であり、そこに未来の姿はない。
こうして切り取った曼殊沙華も、今やすっかり枯れてしまっているだろう。
しかしながら、当時の現場の湿度や温度、そして匂いまではなかなか伝わらない。
情報量の多い映像ならまだしも、果たして、写真には一体何の意味があるのかと、時折そんな疑問を抱えながら撮影している。
概して、過去の産物である写真は、過去の時間を追体験させてくれるものだ。
(だから人はそれを思い出や記録と呼ぶ。)
そこに表現力が加わると、鑑賞に耐えられる「作品」にもなる。
面白いのは、同じ場所、同じ時間であっても、撮る人が違えば写真の質感も異なる。
果たして長い経験があっても、そこには自分の知らない技術や構図があったりする。
従って、他人の作品を鑑賞することは、自己の相対化という大きな意味があると思う。
(相対化がもたらす功罪は、長くなるのでここでは言及しない。)
近年ではインスタ映えが定着し、瞬発的な美しさがイイネされているのは皆さんご存知の通り。
僕はそれも表現の1つであるし、昔から広告デザインに求められてきたものなので、俄かに批判することもない。
ただ、個人的には、表面的な美しさよりも、さらに奥行きのある世界観を表現したい。
この曼殊沙華も、光が当たる部分よりも、影に当たる脇役たちが主役ではないかと思った次第。
花の状態は悪く、小雨も降る中で撮影には苦労したけれど、こうして過去の瞬間を再び照らすことが出来るのは、カメラという現代機器のなせる業。
だから次も、その次も、僕はカメラを持って記録し、表現するだろう。
自分を相対化するために。
Amaryllidaceae × Nikon1 J5
Amaryllidaceae × Nikon Z 6
撮影地:七ツ森古墳群(大分県)