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【日記】寝た子を起こした富士フィルムの広告炎上事件。その先にある表現の萎縮は避けられるべき。

富士フィルムが新商品のプロモーションで大失敗。

いや、大成功とも言えるのかな?

少なくとも議論を巻き起こしたという意味では成功と言えるのかもしれない。

・富士フイルムが公開した公式プロモーション動画は、『FUJIFILM X100V』を使った自分の写真の撮り方をテーマにしたものです。各国の著名カメラマン6名による撮影シーンや、その作例が紹介されていました。

・日本からはストリートスナップで高い評価を得ている鈴木達朗さんが取り上げられ、その撮影シーンが動画で紹介されました。

・しかし、これが炎上しました。

・理由は被写体が嫌がっている様子が見てわかったからです。

・「FUJIFILM X100V」プロモーションサイトにおいて、視聴者の皆さまに不快感を与える動画が掲載されましたことを深くお詫び申し上げます。
・本日、当該プロモーション動画の配信を停止いたしました。

・頂戴いたしました、多くのご意見・ご指摘を真摯に受け止め、今後このようなことがなきよう努めてまいります。
・引き続き、写真の素晴らしさを多くの皆さまに共感をもって受け止めていただけるよう取り組んでまいります。

さて、ストリートスナップ(ストリートフォト含む)に対する世間からの風当たりは年々強くなっている印象があり、それを証拠に「顔をなるべく写さない」という不文律が形成されつつあるのは否めません。

一介の表現者としては、それはもう凄く残念な事に思えるのですが、肖像権という名のプライバシー概念を時代が要請したと考えれば、致し方ないことだろうと自分を納得させています。

そこには、言葉の取り扱いが時代によって変わるように、写真の取り扱いも変わって当然という認識があるからです。

一方で、そうした物事の変化を瞬間として捉えるところに写真の面白さがあり、果たしてこの概念は般若心経でも語られています。

・すなわち、目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。

・仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。

この世には不変なる実体が存在しないからこそ、瞬間を「記録」としてこの手に収めること、それが写真の存在意義であるという論拠です。

僕は人物に興味がないので、専ら風景写真を撮りますが、例えば同じ山の写真を撮り続けても飽きることはありません。

春には花が咲き、夏には緑が生い茂り、秋には紅葉、冬になれば雪景色、、、四季のある日本というアドバンテージもありますが、悠久の自然風景でさえ決して不変ではないということを思い知らされます。

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これが雑踏ひしめくストリートなら尚更でしょう。

特に都市部、例えば渋谷なんてどうですか。

南口なんて僕が大学の頃に通っていた面影はほとんど消え去りました。

そしてまた歩く人々も、服装や髪型だって昔とは違います。

つまり、ストリートを写すというのは、そこに生息する人々を含めて「記録」として切り取る行為を指します。

さらにそこへ文化的な感性、これを一般的にはセンスと呼びますが、機材の進歩と撮影技術の恩恵もあって「記録」が「作品」へと昇格するに至るのです。

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では、なぜ人は写真を撮るのか。

先に述べたとおり、写真には瞬間を切り取る「記録」としての効果があります。

僕が問いたいのは、なぜ「記録」したいのか、ということです。

そこにはまず、人間は忘れる動物であるという生物学的特徴を考える必要があるでしょう。

どんなに天才で秀才な人でも、人生に起こった全ての物事を記憶することは困難です。

僕のように実際に歳を重ねると分かってくるのですが、記憶が薄れていく感覚は常にあります。

些細な事でも、度忘れしてしまうと、なかなか言葉が出てこなかったりする。

こんなことは皆さんにも日常茶飯事でしょう。

しかしそこには、忘れることへの恐怖が存在しています。

恐怖というといささか大袈裟ですが、人間は忘れる動物であるが故に、忘れたくないという無意識の欲求があることを、我々は認めなければなりません。

(だからこそ、忘れていく病であるアルツハイマー病は、人間にとって最も悲しい病気なのです。)

明日の記憶

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つまり、写真を撮るという行為は、忘却することへの恐れからくるものではないでしょうか。

もちろん、カメラという道具に触れ、楽しいから撮るという発想もあります。

そんな楽しい瞬間を切り取って、インスタ映えしたい、という承認欲求があるのも分かります。

ただ、あくまでもそれらは表層的な一面であって、本質的な部分を突き詰めていくと、忘れたくないという極めて人間の自然発作的な欲求の表れなんじゃないかなと僕は考えています。

そう考えると、ストリートスナップに価値を見出すことも決して難しいことではないはずです。

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ただ、今回の炎上事件については、寝た子を起こしたような印象があります。

これまで、というよりストリートスナップなるジャンルが世の中に登場して以来、勝手に許可なく人を撮影するという行為に対しては、常に賛否両論だったかと思います。

寛容の程度の差はあれ、日本に限らず、海外でも同様であろうと推測されます。

自分も含めて、いきなり撮影されたら気分を害するのは当然です。

結果的に変顔に撮られたものが、相手のライブラリーに保管され、自分の知らないところで展示されたりする、、、大人には自意識があるからこそ、嫌悪感を抱くのは当たり前のことです。

ですから撮る方も殴られたり、よもや訴えられたりするのを覚悟して撮影に挑むことになります。

他方、そうして撮られた写真の中には、背景と人物が違和感なく溶け込んでいたり、またはその逆も然りで、非常に趣きのある作品に仕上がっていることがままあります。

まさに刹那の芸術を体現しているともいうべき、作品としての鑑賞に耐え得るものも多い。

(特に無機質な都市における人間の有機的存在は、対比性にも優れています。)

そもそも、表現活動そのものは基本的に自由で闊達であるべきだし、特に写真や絵画の世界は作品から迸る文脈を読むところに鑑賞の醍醐味があります。

言葉を必要としない表現手段に対して、言葉(文脈)を見つける楽しさ、面白さ。

そこには批評の重要性が自ずと浮かび上がってくるのですが、これはまた別の機会に譲るとして、優れた批評は新しい価値をも創出する場合があることを、付け加えておきます。

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今回の炎上事件は、やや問題のある動画プロモーションが、カメラメーカーによるものだったことで瞬く間に延焼しました。

これが例えば、写真家個人のプロモーション動画なら、ここまでの「metoo」は広がらなかったかもしれません。

元々賛否両論が起きやすいストリートスナップですから、SNS上での脊髄反射やブログなどで議論が勃発するのは目に見えていますし、カメラメーカーの広報担当者であればある程度の批判も覚悟の上だったのではないでしょうか?

ところが、です。

富士フィルムときたら、すぐに動画を取り下げて謝罪のプレスリリースを出す始末。

全くもって気概を感じない、腰砕けの状態です。

極端な話、これではストリートスナップ自体が悪しき存在として社会から疎まれる存在にもなりかねません。

このプロモーションに登場した写真家以外にも、プロアマ問わず多くの方がストリートに価値を見出し、今なお街角にて写真を撮って楽しんでいるというのに、今後はますます肩身が狭くなるのではと危惧しています。

(僕自身もサイバーパンクを表現するために都市での撮影を試みる1人です。)

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何れにしても、表現の手法を世の中に提起すること自体は賛成です。

昨年の「あいちトリエンナーレ」の問題も然り、賛否を議論することには大きな意味があって、一介の表現者からすると、そこから時代の流れを読み込んでいけるという収穫もあります。

そしてまた、この世は色即是空の世界ですから、モラルもマナーもルールも、時代によって変わることは当然にあるでしょう。

今回の富士フィルムもいきなり白旗を上げるのではなく、写真文化を尊重するメーカーとして、堂々と社会に問題提起すれば良かった。

もし、会社として批判を浴びる覚悟がないのなら、最初からこの動画を世に出す必要はなかったと思いますね。

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それこそ写真に対する考え方なんて、100人いたら100人なりの考え方があります。

そんな多様な価値観を認める社会であれば、多様な表現手法を獲得することも出来るはず。

今回の件にしても、ストリートスナップに対する不文律がきちんと形成されるなら、それはそれで意義のあることです。

(例えば、見知らぬ人を正面から撮らない等。)

そうした中で意趣に富んだ作品は、我々の人生をきっと豊かにすると思います。

日本国憲法にも記載のある文化的、とは元々そういう意味ではないでしょうか。

せめて表現が委縮することだけは、絶対に避けるべき道だと思います。

あと、ここはブログなので自分勝手に、最後に1つだけ言わせて欲しい。

カメラには、罪はありません。

開発者が心血を注ぎ、数多の失敗を繰り返しながら、意匠あふれる道具として陽の目を見ます。

道具なのですから、要はプレイヤーの使い方の問題です。

この件で、新製品まで批判されるような流れにならないことを祈るばかりです。

以上。